日記
15時50分、私は逃げるように家から飛び出し、勢いよく自転車のペダルを踏んだ。
放課後の事だった。今日は俗に言う華の金曜日であるが、普段は大阪・高槻に勤務し一人暮らしの姉が、驚異の10連休を頂いたらしく、実家へ帰ってくることを密かに楽しみに、私はいつもより軽い足取りで家へと向かっていた。
しかし、家の前の路地に入る手前で、私はある事を思い出した。今日は推薦入試が行われる為、全ての高等学校の在学生が休みとされていて、それに該当する高校生の姉も、家で友人と映画鑑賞をするなどと言っていたのだ。幸い姉の言う友人とは私も顔見知りだったので、人見知りな私でも特に気にせず家に帰ろうと思っていた。
ところが、玄関のドアを開けた私の目に入ってきたのは、玄関に隙間なく陳列する、青年用と思われる汚れが目立つ大きめのスニーカーだった。その瞬間、私の脳内から、『賭博堕天録カイジ』の一コマがアウトプットされた。
恐る恐る、神妙な面持ちでリビングへ繋がるドアを開ける。そこには汚ねえスニーカーの持ち主であろう巨漢が7人、家に来るのが1回目とは思えないくつろぎ方の巨漢、7人。
バチクソガチヤンキーだ。
そう悟った私は、瞬間、死を覚悟した。ヒグマに遭遇した子狐は、小便を漏らしそうになりながら、小走りでヒグマの群れを横目にキッチンへ飛び込んだ。
私は元来、7人の巨漢連れの姉とは正反対で、男性が苦手なのだ。人見知りという厄介なものもあるが、初対面の男性が吐くほど苦手なのである。そのワケはなんでもいいのだが、とにかく一刻も早くその場から離れないと、過呼吸になると思った。なんでも初対面の巨漢7人だ。紙オムツが無ければキッチンは洪水だっただろう。時計を見るほどの余裕は無かったが、家に着いてすぐ外に出たので、おそらく15時50分、私は逃げるように家から飛び出し、勢いよく自転車のペダルを踏んだ。
私は通っている塾の教室に向かっていた。ハンドルを握る手を寒風に劈かれて、私は物思いにふけていた。人嫌いに拍車が掛かっていると思った。先に述べたように、私は人見知りが激しいのだが、歳月が過ぎればいずれ治ると思っていた。現に少しずつ、治ってきていると感じていたのだ。コンビニや飲食店で店員に愛想よく話せるぐらいには治っていた。
しかしあの有様だ。なんとも形容しがたい感情がミキサーにかけられ、あの時どうすれば良かったのか未だ分からないが、ただその時はマフラーの中で泣いた。女がよく言う「泣いた~😂」ではない。マジで泣いたのだ。「眼構造の刺激を伴わずに、涙器から涙が流れることを特徴とする複雑な分泌促進現象 (Wikipedia参照)」である。マフラーの隙間をくぐって、風が涙を乾かした。イヤホンを忘れたことに気づいたが、取りに帰ろうとは1マイクロメートルほども思わなかった。
しまった。
急いで家を出てきてしまったのでトイレに行き忘れたが、教室のトイレは古くてドアも薄く、音が大分漏れるため、あまり使いたくない。コンビニに寄る事にする。セブンイレブンの手前の横断歩道で、赤信号が青に変わるのを待つ。
バタバタ、騒がしい足音が近づいている事に気付いた。小学校低学年くらいの男の子が5人、青信号を待つ私の横まで走ってきたので、泣き跡がバレないようにマフラーに深く沈めていた顔を少しだけ風に当ててみる。ぴゅうと吹いた冬の風が、私の内臓までもを冷やした。男の子たちは皆揃いも揃って、学校指定と思われる半ズボンから細く乾燥した足を伸ばしている。そういえば私も数年前までは季節なぞ関係なく木枯らしと戯れていたように思う。何故だかまた泣きそうになって、赤の信号に目をやる。
「むこうまでキョーソーな!」
甲高い声に、思わず声の主を見やると、顔のホクロが多かった。否、顔が“ホクロそのもの”であった。ホクロが多い人の全身のホクロを顔に全集めしたような顔だった。黒側が優勢なオセロ盤だった。ここではその子供をホクロと呼ぶ事にする。
「青しんごうなったらおれがヨーイドン言うから!」
そう言ったホクロは、両手で他の4人を制した。典型的な仕切り型だと思った。10歳ぐらいかと思われるホクロは、小学校ではドッジボールで運動が苦手な女子を執拗に狙い女子から嫌われ、中学校では湘南乃風にタオルを振り回し、高校ではクラスの陰キャをいびり、Fラン大学ではロクに授業も受けず後輩女子を端からランク付け、就職してからは草野球で無駄なチーム統制に力を入れ、後輩女子に陰口を叩かれるのだなあと思った。うっそぴょ〜ん。おちんちんびろ〜ん。
ホクロの「おれが言うまでな!まだやで!」を聞いた4人の少年はそれを「オンユアマーク」と捉えたのか、子供ながらに各々のフォームを作る。その時の少年らの顔は、レーススタートを待つF1レーサーのそれを彷彿とさせた。私の胸は高まり、私から1番離れた5レーンの、体格が良い少年に密かに張る。見逃せないレースが、確かにそこにあったのだ。関西のとある下町に。
そこに音は無かった。
あったのは5人のレーサーの、熱く燃える眼が、ゴールのみを見つめていたという事実である。
ぱっ
青だ。
だっ
1匹の小鼠が飛び出した。
ホクロだ。
ブザーは鳴らなかった。
代わりに、ホクロの足音だけが聞こえた。
スタートのブザーを待つ4人のレーサーは、思わぬ事態に筋肉が硬直する。
事態を理解した時には、ホクロは4人の1メートル先である。
私が張った体格の良い少年は最後までホクロを追ったが、先頭を走ることはなかった。
ホクロのメダル獲得である。
私は、5人の少年の背中をただ呆然と見つめていた。たった数秒の映画に、ひどく心揺さぶられていたのだ。レーサーの面持ち、ホクロの裏切り、社会の厳しさ、母の偉大さ、時の流れの速さ、
とにかく私は、泣いていたことも、家から飛び出したことも忘れて笑っていた。
横断歩道
ところで、私には真っ赤なスーツとハットが良く似合う友人が居る。イギリス人のリチャードだ。少しだけ退屈な待ち時間、リチャードはいつも、どこにだっている。
「ハーイ、調子はどうだい?」
明るい声色のリチャードが挨拶する。
私は「まあまあね」と返す。
「なんだか元気が無さそうだね。」
「そんな事ないわ。そんなことより、今日のスーツも素敵ね、リチャード。ローズ・レッドのハットも最高よ。」
「ああ、ありがとう!サルトリア・ダルクォーレのスーツにフェイルスワースのハットさ!イカしてるだろ?」
「ええ、勿論」
リチャードはファッションに目がない。同じ服を着ているところを見たことないほどだ。
「それより、今日も綺麗だね!ブロンドの髪をなびかせる風も喜んでるよ」
「嬉しいわ、リチャード」
リチャードは私の友人の中でもとびきり紳士で、どんなに小さい変化だってすぐに気づいて褒めてくれる。
「おっと、そろそろあのスカしたカエル野郎が来る頃だな」
“カエル野郎”とは、モスグリーンのスーツを着こなす、フランス人のフィリップのことだ。リチャードとフィリップはイギリスとフランス、隣国だということもあって、すこぶる仲が悪く、一緒にいるところを見たことが無い。
「フィリップの奴、まだママと一緒のベッドで寝てるらしいぜ。フィリップのママが言ってたんだ、いびきがゲコゲコうるさくて寝れないってさ!」
私がくすりと笑うと、リチャードは満足げに「それじゃ、また」と帰っていった。
同時に、フィリップが来た。彼は少しシャイで、私に一瞥をくれると、小さく会釈した。私もそれに小さく返すと、彼は「御機嫌よう」とぽそり、低い声で言ったので、私もおうむ返しで「ごきげんよう」と言った。私が「今度良い家具屋さん教えてあげるわ、シングルベッドを買った方がいいもの」と冗談めかすと、彼は素っ頓狂な顔をした後、けろけろと笑いながら「またあの英国おしゃクソ野郎だな」とこぼした。
「あら、嘘だったのね」
「いや、ちょうど新しいベッドを買いたいところだったんだ、お願いするよ」
私は「ええ、それじゃ」と言うと、彼は「良い午後を」と呟いた。私はゆっくりとペダルを踏んだ。